駆け出しのスニーカー脱げた・・

blog ちゃれんじ。介護のこと、老親の扶養控除申請のことなどつづります。

帚木蓬生さん(作家、精神科医)インタビュー

帚木蓬生さん(作家、精神科医)インタビュー


検索されることが多いので転載しています。過去記事より。 ははぎほうせい さん。

帚木蓬生さん(作家、精神科医)、
ギャンブル依存症という解決の糸口さえ見つかりにくい家族を苦悩に落とすなど、
さまざまな問題を引き起こす、
精神疾患に取り組まれています。


先の記事の朝日新聞のリンクが切れていましたので、
web上で検索して転載させて頂きました。

東大卒業後にはTBSに勤務されたこともあり医学部に入り精神科医を志された経緯、
予防医学にも薬事行政にもちょっと触れてあるかと思います。
大変興味深く拝見いたしましたのでご紹介させて頂きます。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

朝日新聞社が発行する総合医療月刊誌「メディカル朝日」の巻頭インタビューを、
転載させて頂きます。


ギャンブルがやめられない・・・・・・国内に推定200万人だそうです。
よかったねノート 感謝の言葉にかえて-やめられない
         やめられない ギャンブル地獄からの生還


やめられない」 ギャンブル地獄からの生還


帚木蓬生さん(作家、精神科医)インタビュー [10/03/10]


ははきぎ・ほうせい
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1947年、福岡県生まれ。69年、東京大学文学部卒業、東京放送(TBS)入社。退社後の72年、九州大学医学部に入学。79~80年、フランス政府給費留学生としてマルセイユ・聖マルグリット病院神経精神科、80~81年、パリ病院外国人レジデントとしてサンタンヌ病院精神科で研修。帰国後、精神科医として勤務するかたわら、小説を執筆。代表作として『賞の柩』『三たびの海峡』『閉鎖病棟』『逃亡』ほか。八幡厚生病院副院長を経て、2005年、通谷メンタルクリニック(福岡県中間市)開業。


いのち」と向き合って

 精神科医としての臨床のかたわら、鋭い人間観察と丹念な調査に基づく小説を書き続けてきた。2008年には、突然の病魔に襲われ、急性骨髄性白血病で、半年間の入院生活を余儀なくされた。
 限りある「いのち」と正面から向き合い、医師として、作家として、得たものとは何だろうか。


――復帰されて1年になりますね。

帚木 2008年12月27日に退院するまで半年間、入退院を繰り返しました。その間、20年来の地元の勉強会の仲間や大学医局の大学院生18人が、入れ替わり立ち替わり代診に来てくれて、クリニックを1日も閉めずにすみ、ほとんどの患者さんにとどまってもらえました。無菌室で面会謝絶でしたが、その半年は専業作家と同じで原稿もはかどり、音楽も聞け、今思えばあんなにいい生活はありませんでした。

――病状はいかがでしたか。

帚木 その年7月に職員の血液検査をしたところ、翌日、検査会社からあわただしく電話がかかってきました。白血球数が異常で赤血球も減っている、すぐに血液内科に行ってくださいと。2日後には急性骨髄性白血病と診断がつき、そのまま入院です。診察も職員旅行も講演会もすべてドタキャンです。
 治療は、化学療法と自家末梢血幹細胞移植の組み合わせが奏効しました。確立した治療法はありましたが、年齢的なこともあり、生死は五分五分だと覚悟しました。悪いほうに転んでももう十分仕事はしてきたと思う反面、代診の医師やスタッフ、患者さんを思うと、やはり生還しなくてはならないと思いました。

患者さんに自分の病気を伝える

――闘病から得たものはありますか。

帚木 三つの医学的知見を得ました。まず、医師が入院する際に最も大事なのは、患者さんに対する病気の開示です。私はすぐに「急性白血病で数カ月の入院が必要で、その間は信頼する仲間の先生たちが診療するので、これまでどおり受診してください」と伝えました。職員にも、役者の渡辺謙さんと同じ病気だから心配しなくていいと言い含めたことで、ずいぶん助かりました。次が、病んだ治療者の役割はどうあるべきか、さらに、当院で飼っているセラピー犬の主がいない間の役割について。三つの論点で退院までに論文を仕上げ、すでに発表もしました。

――主治医を質問攻めにするようなことはありませんでしたか。

帚木 ないです。勤務医をしていた時に、躁うつ病アルコール依存症の医師も診ましたが、医師には生半可な知識があるだけにとても苦労しました。あんな悪い例になってはいけないので、素人の気持ちで「はい、はい」と、素直な患者になろうと努めました。 病気について特に調べたりもしませんでした。患者さんから、「今は良い治療法があるので落ち込むことはありません」「身内もかかりましたが、今は元気です」「神様がくれた休暇ですから、ゆっくり休んでください」という手紙を多くいただきました。

無菌室で筆を進める

――最新作『水神』は、病室で書かれたそうですね。

帚木 執筆は1年1作と決めていて、大体1月から書き始めます。前半分は書き終えていたので、何としても続けなければと思いました。どの作品でも100~200冊の資料を読み、必要な所だけを10センチぐらいのファイルにしてあります。4畳半ほどの無菌室のベッドは完全に無菌ですが、原稿用紙や資料を消毒して病室に持ち込みました。脇の机に向かっていると、看護師さんに安静にするよう諭されるのですが、ベッドで情景が浮かぶと、それを忘れないうちに書き留めるという繰り返しでした。
 精神的に参ってしまう患者さんも多いようですが、私にとっては3食昼寝付きで執筆に専念できる極楽でした。

――それほど筆が進むのに、専業作家にならなかったのはなぜですか。

帚木 「朝から晩まで小説を書くほど不健康な生活はない、“日曜作家”で十分だと思っていますから。

1年1作。使命感からテーマに向かう

――医療物、歴史物、戦争の負の遺産を描いた物など、多彩なテーマはどのようにして決められるのですか。

帚木 1作が終わると、数年先の1作のテーマがちらっと思い浮かぶので、5~6年かけて資料を集め、集まったところで執筆の年が来るという手はずです。7年後まで決まっています。
 今これを書いておかなければならないというテーマがあります。例えば、『インターセックス』では、男性でも女性でもない中間の人たちが苦しんでいる様を描きました。性同一性障害がオープンに語られるようになっても、そうしたことは表に出てきません。

――次回作は異色ですね。

帚木 4月に出る『カブールの青い空』(仮題、あかね書房刊)は8年越しの企画で、私にとって初の児童書です。戦争物ですが、今の日本では緊迫感がないので、アフガニスタンの内戦や9.11テロを背景に、カブールに住む少女を主人公にしました。編集者の企画に乗って書いたのも初めてです。遺言になるかもしれないと、気合を入れて書きました。

放送局勤務から精神科医に転進

――東京放送(TBS)に入社されたのも、ジャーナリスティックな志向からですね。

帚木 TBSを志した頃は、世相を描写する「ラジオスケッチ」という番組の制作を希望していましたが、入社するともうなくなっていて、TBS成田事件(成田空港反対派の住民を取材車に同乗させていたことが発覚し、社内処分がなされた事件)もあって、報道局は縮小されていました。私が配属されたのは歌番組やお笑い番組で、40歳すぎると閑職に回る人などを見るにつけて、テレビ界に見切りを付けました。元々は理科系で、食べていける仕事をということで、25歳で医学部に入り直しました。精神科を選んだのは、フランス精神医学が魅力的だったのと、歳を取ってもやっていけそうだという理由です。
 最初に文学部に入った時には小説家を目指していて、作家を多く輩出しているからと仏文科に進みました。テレビ局勤務時代からやりたいものが見えていて、小説に形を変え、ずっと続けているとも言えます。
 最初の単行本、『白い夏の墓標』を出した時、担当編集者から「食い扶持があれば好きなものを書けるから、兼業のほうがいい」と勧められました。また、私は医学を捨てて作家になったのではなく、文学部から医学を選んだのですから、医師として死ぬまで臨床をやらなければその甲斐がありません。

医学部で小説作法を学ぶ

――それでも、書きたい衝動はやまなかったのですね。

帚木 入学して最初に書いた小説は、3年生になって、死体を解剖するという衝撃的な経験をしたことから生まれました。九大には過去に生体解剖事件(戦時中、米軍捕虜を生きたまま解剖し殺害した事件)もあり、医学界には魅力的な題材がいっぱい転がっていると思いました。
 実は、執筆には、医学教育も大きく活かされています。医学部の教育手法は、まず「観察する」、次に病気の「由来をたどる」、すなわち資料を調べることで、最後が「揺さぶってみる」で、自分なりの考察をせよということです。医学論文執筆は小説書きに似ており、文章力も養われました。文学部の論文に教官が赤字を入れることはあり得ませんが、医学部では助詞一つから始まって、真っ赤になるまで指導されます。それも役に立ちました。
 世の中に医師兼作家という二足のわらじの人は多いのですが、「小説を書いているから、ろくな臨床はしていない」と後ろ指をさされるような精神科医にはならないと決め、論文にも臨床にも一生懸命取り組みました。

――患者さんのお話が小説にも活かされていますね。

帚木 直接的に患者さんのことを描くことはないですが、例えば、日韓問題がテーマの『三たびの海峡』を書くに当たっては、患者さんには在日の人が多くいて、炭鉱や強制連行のことを聞くことができました。
 歴史小説の場合は、調べ上げに尽きます。従来の歴史小説と言えば著名人が中心で、上方や江戸を舞台に、登場するのも商人や武士ばかりですが、本当の庶民を描きたいと思ったのが、『水神』であり『国銅』です。

――生殖医療をテーマにした作品も多いですね。

帚木 そうですね。1993年に出た『臓器農場』は無脳症児がテーマで、あの頃から生殖医療には、闇の世界があると感じていました。日本では、医学だけを独立したものと捉えていますが、諸外国ではELSI(Ethical, Legal and Social Issues)という枠組みで考えます。倫理、法律、社会と、医療の問題は皆で幅広く考えなくてはいけません。
 こうした必要性は、生殖医療については特に強くなります。例えば、アメリカでは、妊娠中の女性が逆上して、自分の腹部をピストルで撃ったことで、殺人罪に問われました。日本では胎児には人権がありませんから、あり得ないことです。遺伝子チップを用いた診断で先天的な疾患が分かるようになった時も、アメリカではゴア上院議員(当時)がすぐさま、医療機関は遺伝子情報を保険会社に知らせてはならないという通達を出し、法律にもしました。日本にはそういう議員も、そうした社会的なことに目を向ける医学者もいません。
 終末期医療も同様です。亡くなる間際に点滴などの濃厚な治療をする必要があるのでしょうか。『アフリカの瞳』を書いた時は、アフリカには寝たきりの老人がいないというのを知りました。彼の地では、弱った老人のもとへ食事を持っていくことで自分が食べられなくなったら終わりです。私はそれも一つの医療の限界だと思います。

ギャンブル依存症に取り組む

――そうしたことをストレートに言う代わりに、文筆に向かうのですね。

帚木 そうです。予防医学に全く力を入れていないのも間違いです。製薬会社は金にならないところには手を着けたがりません。私が精神科医として最も力を入れているのがギャンブル依存症ですが、同様の問題があります。
 なぜ、精神科医も製薬会社も皆ギャンブル依存症に冷淡かというと、一つには薬がないからです。ギャンブル依存症(診断名・病的賭博)は、1980年にアメリカの診断基準であるDSM(精神障害分類判断基準)に入り、92年にはWHOの国際疾病分類ICD-10にも記載されました。日本には200万人の患者がいると推定されており、認知症患者よりも多いのに、あたかも存在しないように振る舞っている。これも診ている当事者が書かなくてはならないと思い、今年は症例を中心とした『ギャンブル地獄からの生還』(仮題)という医学書も刊行予定です。

――パチンコ産業と国民医療費が約30兆円で同規模というのは衝撃です。

帚木 出版業に至っては年商約2兆円で、パチンコの15分の1です。日本にはパチンコとスロットが約500万台ありますが、全世界のギャンブルのマシン数は250万台です。これをギャンブルでなく遊技と見なしているのが日本の大問題です。
 これまでに診たギャンブル依存症患者の3割は治っています。いや、治るというのは適切ではなく、ギャンブルをやめるだけです。治療は月1回の通院に加え、週1回以上の自助グループへの参加です。この2本柱がなければ、また逆戻りです。脳内には濃厚な回路ができているため、自助グループのワクチン効果は1週間しかもたず、中止すればまたギャンブルを始めます。誰でもなる可能性があり、薬が効かない病気です。進行性で、治療しなければ自然治癒がないのは、がんと同じです。
 病的ギャンブリングの2大特徴は、借金を重ねること、嘘つきになるということです。日常診療で見かけられたら、精神科に行くことを勧めるべきです。ただし理解のある精神科医を選ばねばなりません。「意志の問題です」と言うような医師もまだいるのです。

これが遺作と思い書き続ける

――大病を体験された後で、生きる姿勢で変わったことはありますか。

帚木 ギャンブルの自助グループでは、いつも最後に、「セレニティ・プレイヤー(平安の祈り)」と言われるものを唱和します。「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを、受け入れる落ち着きを。変えられるものは、変えてゆく勇気を……」というものですが、がんになって現実的になりました。白血病はもう変えられないから受け入れ、明るく生きていこうと、気持ちのほうは変えられますから。

――医師として、小説家として、今後の抱負をお聞かせください。

帚木 命をもらえれば、医師としては、70歳ぐらいまでは患者さんの悩みに乗っていきたいと思います。身の上相談のようなものも多いのですが、それでも役に立っていると感じています。
 小説家としては、1冊でも多く作品を残したいと思います。7年先の予定まで行き着けず途中で途切れても、あんな小説を残したと思われれば本望です。
 今までは永遠にいけそうだと思い上がっていましたが、闘病後はこれが最後の作品かもしれないというのが、常に頭に浮かぶようになりました。がんになったから分かるというのも悲しいですが、それも人生の奥深いところです。


(聞き手 塚崎朝子 ジャーナリスト)


先の記事の朝日新聞のリンクが切れていましたので、
web上で検索して転載させて頂きました。


2013年記載。


やめられない ギャンブル地獄からの生還/帚木 蓬生

¥1,260- Amazon.co.jp


追記
帚木 蓬生著書「閉鎖病棟」が映画化されています。11月公開でした。
閉鎖病棟 (新潮文庫)

シネマトゥデイの記事が読みごたえあります!

www.cinematoday.jp

残念ながら上映期間はほぼ終了しています。

有終の美

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あの日から

この夏より田舎の両親の便りが心許なくって、自分の今後の暮らし方も含めて決めようとしたことがあった。

「心許ない」とは、八十歳を越えた両親の心身の状態のこと。

いったん帰って介護するか、

時折通うか、である。

数か月をめどに休職か、または転勤させてもらうか、

不可能なことではなかった、実際にはかなり無理するだろうが。

そこをやりきる覚悟の上で実家サイドへ申し入れた。

 

いつから、そのような状態になったのか。

それは、突然ではなかった、体調・気力の変化の中での老夫婦お互いの関わり。

老衰がゆっくりでも確実に進み、いつしか日常が崩れだしていた。

いずれかが倒れる寸前で片方が支えられない、そんな段階。

いずれとも倒れそうな不安が母に襲ってきたのだ。

いつも支える側にいた母が頻脈をはじめ様々な症状を訴えだしていた。

 

どこが起点でいつ終わるのか、

わからないから。

実家近くに住まう妹夫婦家族がいて、

妹たちが実家と行き交う生活は、いわば「母屋と離れ」だった。

妹の進言のまま、私の実家行き、私の両親の介護という選択は消えた。

日々のことよ、今までもずっとと、定石の言葉に胸打たれる。

 

父よ。母よ。

この時の決心、後悔ないと言えばうそになると思う。

しっかりとお願いして、わがまま通させてもらうね、そう言えばよかったはず。

できないはずはないんだから。

できるんだから。

何もかも受け入れる覚悟と起きうることへの対処。

 

承知していながら押し込めてしまう、こころ。

楽な道を選び、信念を貫けなかった、いいわけ。そんな置き去りの気持ち。

私自身が流れる日々の中にどっぷりいた。


なにができるか

 しばし忘れ、また浮き上がる。

日常の中の懸念、懸念と圧迫感または焦燥感の間の日常。

父母の状況は実際に会ってみて、やはり放って置けない気がしてくる。

過去に入退院を繰り返してきた父。

長い看病の年月に疲れてきた母。

 

「お母さんが一番問題」

いわば母による父への介護放棄だ。

仮に気持ちが切れていないにしろ、身体が動かなくなっていた。

母が父のことを諦めた、と私は思った。

しかし妹の言葉を借りれば、母が何もかも独りですることはないし、

世の中の独居の方の生活を思えば、どんなに恵まれているか。

ごもっとも、母にも妹にも。

 

「お母さんは何も変わっていない」

 私は妹のいないところで母に声をかけた。

母は返事するでもなく自分の不調を次々唱えるのである。

どうするか、できることは何があるか、

出した答え。

 

最低でも月二回実家に帰り手伝いをさせてもらう。

母の気分転換のため。父を見舞うため。

二泊三日、また来るから。

お茶を濁すかのような手伝い。

妹の献身はさすがだった。

 

通院の際の付添い、食事の世話、洗濯物や掃除。

妹が、妹の息子が、実家帰りしていれば私が。

そうこうするうちに母の入院、交替して父の入院。

一緒に入院というのは母が嫌って自宅に帰ってきてしまった。

独りはやっぱり不安という母の姿は幼児に還ったように思えた。

 

娘三人孫七人ひ孫五人。

次女である妹は小さな子どもの世話に忙しい。

今の状況は私が一番動けるから。

三女は実家うらに住んでいて介護のプロでもある。

契約企業に出向き保健指導を行うのがここ十年来の仕事でもある。

正規職員をあっさり断ってパートに切り替えた。

両親の年金から私に給料払うからしばらく来てと軽口もあった。

 

私にできることを妹、妹夫婦に伺うことで、私のできることが決まった。

妹が両親の介護のキーパーソンだから。